恵美子さんたち一期生の常磐音楽舞踊学院での生活が始まった。
寮で暮らしながら、日曜日を除いて毎日午前9時から午後5時まで、
踊りのレッスンのほか、歴史や英会話、舞踊史、お茶、お花なども学んだ。
門限は午後9時、ほとんど踊り漬けの日々だった。
常磐音楽舞踊学院にはモデルがあった。
常磐炭砿女子野球団「コールシスターズ」。
昭和31年に結成され、選手たちは東京都世田谷区祖師谷の女子寮で共に暮らし、
午前中はお花や和裁、音楽、バレエなど教養講座を受け、午後はグラウンドで野球の練習をした。
野球団の選手も、音楽舞踊学院の一期生も十代半ばの女の子がほとんど。
本分の野球や踊りの上達だけでなく、教養や礼儀も身につけた。
中村豊さんが香取希代子さんにダンスを踊る娘たちの教育を相談した時、
フラダンスとタヒチアンダンスの指導も頼んでみた。
しかし断られ、中村さんは指導者探しに苦慮した。
当時、ハワイアンバンドの演奏は盛んにされていたが、踊りの指導者はほとんどいなかった。
あきらめて現地人教師を招く準備を始めた昭和39年夏、
NHKの番組「私の秘密」で「日本人で初めてのフラダンスの先生」と、二人の女性が紹介された。
ティーナ早川さんとレファナニ佐竹さん。
番組を見ていた中村さんは、2人を何とか教師に招きたいと思った。
それから間もないある日、中村さんの自宅の窓ガラスを割って、ボールが飛び込んできた。
謝りに来た隣家の男性はNHKの職員だった。
「ボールのことは気にしないで。それより先日のテレビに出演した二人の女性を紹介してください」
とお願いし、2人を学院の教師に招くことができた。

もう一人のまどか先生1