列車の荷台に置いたボストンバッグには、福女の制服と黒革の鞄が入っていました。
「あんた、高校を中退してまで選んだ踊りなんだから、頑張れよ」
と自分を励まし、支えるためでした。
入学式の翌日から、レッスンは始まりました。
わたしはそのころ身長が162センチ、
体重が68キロあって、10キロぐらい落とそうと、朝食も自分で制限しました。
毎日踊るようになって、どんどん減っていきました。
中村豊社長にも
「お惠、どうだやせたか」と、言われていました。
バレエでは初め足が開かず、上がりませんでした。
腰も動きませんし、膝を曲げて左右に2歩ずつ動くのがつらかったです。
手の動きも柔らかくしないといけないし。
でも、すぐにフラメンコのとりこになりました。
足をばんと床に打つと体にずんときて、背筋がぴんとしました。
それにカスタネットのリズム。
フラメンコは踊りと歌とギターでつくっていきます。
形が同じでもハートが伝わります。すごく楽しくて、わたしには合っていました。
末田テル子(旧姓は萱野)と金内淑子(旧姓は吉田)と気が合って、仲がよかったです。
テルは踊りが好きで、いわきに知人がいて、それが縁で学院に応募したみたい。
東京の大和市出身で、着るものもかっこよかった。
体は小さかったけれど、すごく元気で迫力があり、人気者でした。
淑子は美人でもてて、踊りに興味を持ち高校を卒業して入ってきたと思います。
休みの日に平のダンスホールにツイストを踊りに行ったら、
「やっぱり、ここだったのか」と、寮長の桐原松二郎さんが迎えに来たことがありました。
翌週は外出禁止になり、けいこ場で音楽をかけて踊りました。
ステージに立つようになってから、湯本の町も少しわかるようにもなり
「きょう、行ってみる?」と脱走していました。
ジンフィーズを飲んで、帰りに踏み切りの遮断機が下りて、桐原さんに見つかったことがあります。
脱走防止の鉄線に髪の毛がついていたそうです。
学院は5年で辞めて、スペインに行ってフラメンコを学びました。
手の表情はあの先生、ステップはこの先生などと選んで、フラメンコ三昧の日々でした。
母が体調を崩したため、1年半で帰国し、その後はグループを組んで全国を回ってフラメンコを踊りました。
40歳の時でした。気がついたら、踊り以外何もできない自分がいました。
「もう踊るのはいや」と髪を切り、趣味を持とうと考え、スイミングスクールに通 いました。
4年間で平泳ぎ、クロールなど四種類を泳げるようになりましたが、毎日泳いでいると飽きます。
「やはり、踊りしかない」。
スイミングスクールで友達になった人たちなどに「やってみない」と声をかけ、生徒を募って、平成9年に東京に自分のスタジオを持ち、フラメンコを教えながら、ステージにも立っています。

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